VS 鼻の掃除人

小学生の頃、常に鼻の穴を指で掃除している同級生の三田村君(仮名)がいました。


ある日、三田村君がいつもどおり鼻の穴を掃除したうえで、掃除仕立てのその指で右高さん(仮名)の肩にサッと触れたのを目撃した私は、「あっ 今、きたないことした!」と憤りました。

そして、意気揚々と被害者である右高さんにつげ口しました。

「ねえねえ、今、三田村、鼻の穴ほじった指で右高さんの肩たたいたよ!」

私は、「しめしめ。右高さんはさぞ怒るだろう。なんなら報告した私に感謝するかもしれない」とにんまりしていました。三田村君のことはあまり好きではなかったので、一石二鳥だと。

すると、それを聞いた右高さんは表情ひとつ変えず、ひと言「だから?」とだけ言い、プイッとして友達と話し始めてしまいました。


あれれ? 全く意に介していない...!?


期待外れの私は我に返り、なんだかひとりで騒いで馬鹿みたいと思ったものの、今さら引くに引けず、 悔しくなり、私自身はなんの被害も受けていないにも関わらず、ひとりで鼻の掃除人(三田村君)を非難し続けました。


つまり要はこういうことなんだと思います。


起きた事態に対して、当事者がどのように思っているかは置いておいて、周りの全く関係のない人間が殊更に騒ぎ立て、事態をややこしくする事例はいっぱいあると思うんです。

代表的な事例としては、山賊にお酒をブチまけられたシャンクスとそれに憤ったルフィが挙げられます。あの場合ルフィが殊更に騒いだ結果、シャンクスは腕を失いました(ONE PIECE 1巻参照)。


だから、オトナになった今だからこそ、右高さんのように「だから?」で済ませる精神性を見習うべきだと思うんです。

愛は一方通行

取引先のおじいちゃんと食事に行きました。


取引先といっても、私が働いている職場の中に事務所を構えているところで、しょっちゅう会いますし、お会いしたら少し立ち話をするような良好な取引先のおじいちゃんです。西さん(仮称)と言います。

先日、話の流れで西さんに食事のお誘いを受けたので、職場の近くの飲み屋さんに行きました。
私はお酒はへなちょこなので、申し訳ないなーっと思いながらカルピスを飲んでいたら、西さんも「俺も呑めないからさ」と烏龍茶を注文していたのは気を遣っていただいたわけではないと思います。


で、お会計。ここで今まで幾人の大人と大人が見えない確執を重ねてきたことか。私は覚悟を決めてご馳走になりました。もちろんワンアクションフリーペイはしました。でも、びた一文払っていません。だって、西さん払わなくてイイって言うんだもん。


※ワンアクションフリーペイとは
飲み会の会計時にお財布をおもむろに取り出し、支払うそぶり(ワンアクション)をしておいて、実はびた一文支払う気はないこと(フリーペイ)
ようは予定調和の小芝居である。


もともと親子ほども年が離れているふたりです。二次会の雰囲気でもないため、そのまま帰る雰囲気になり、「それでは...」と言うと、西さんはなにやら物足りないご様子。だってまだ20時30分だもんね。でも、どこ行こう。っと少し考えていたら「カラオケいかがっすかあああ?」っとキャッチのお兄さんにお誘いを受けました。

すると「カラオケ行こうよ」っと西さん。意外とノリ気です。私もカラオケが落とし所かなーっと少しゲスな考えがよぎり行くことにしました。


カラオケで、西さんは加山雄三吉幾三石原裕次郎等と予想どおりの選曲をするものだから、私もバンバンや清水健太郎越路吹雪を唄い、歌謡曲で張り合いました。西さんはとても楽しそうに聴いて、一生懸命に熱唱して、そんな西さんを見て、私自身も嬉しい気持ちになりました。


そう、そこには確かに友情の二文字がハッキリと浮かんでいたのです。


最後に一緒にサライを歌い、デンモクの履歴は老人会の集会後の二次会カラオケさながらです。


で、お会計。ここはもうワンアクションフリーペイでは済まされませんし、私だってそのつもりはありません。だって、友だちは対等じゃなきゃいけません。
伝票をとり、さっそうとお会計フロントまで行こうとすると、西さんがお約束どおり駆け寄ってきました。


西さん「俺が払うから!」

私「いえいえ、さっきも払ってもらっちゃって、ここはもう私に任せてください!」

西さん「いいから伝票貸せっ!」

私「いいえ、ダメです!」

西さん「おこるぞ!」

沈黙「…………」


少し険悪な空気が流れました。あーもうこれじゃあ結局ツーアクションフリーペイじゃんか。と思いながら、西さんにしぶしぶ伝票を手渡しました。

払っておくから先に行ってて、という西さん。でもエレベーターで先に一階まで降りるほど無粋じゃりません。フロント前でじっと待ってました。すると、西さんと店員さんのやりとりが耳に入ってきました。


店員「項目はなにになさいますか?」

西さん「項目?」

店員「飲食代・カラオケ代・接待費がございます」

西さん「あぁ、接待費でお願いします」


えっっ! ちょっと待って! 今なんて? 今の言葉、プレイバック!

接待費でお願いします」

えぇぇぇぇぇー! ちょっと待って! 今なんて? 今の言葉、プレイバックPart2! ってもういいか。


いや、接待費ってなんですか? もしかして経費で落とすおつもりですか? しかも勘定項目は「接待費」!
接待なの? ねぇ、接待されていたの? 飲みの席では痛風がでてきたという悩みを赤裸々に話してくれて、カラオケでは「海 その愛」を一緒に熱唱したあのときの全部は「SETTAI」だったの?

でも、私には問いただすことはできませんでした。答えを聞くのがこわかったんです。真実はたいてい残酷らしいですし。

きっと一次会も接待費で落とすんでしょう。そう思うとあのときの彩られていた場面場面が全部薄汚れた作り笑いと見返りでまみれた接待という言葉で汚されていきました。


こんなことなら意地でも自分で支払うべきだった。こんなことなら、こんなことなら…悔やんでも悔やみ切れません。


別れ際、西さんは「今日は本当に楽しかった。まさかこの歳で若い人とカラオケ行けるたぁ思わなかったよ。ありがとう!」とにんまりしながら言い残し都会の雑踏に飲み込まれて行きました。


薄汚れたお金の匂いだけを残して…

メイド イン どこ?

昨年インドを旅行したとき、デリーでインド人のタクシー運転手さんと仲良くなりました。

車中にて、運転手さんはずーっと口笛を吹きながらラジオから流れるインド音楽に身を委ねて縦揺れしてました。少し気まずい沈黙。なにか話したいけど、そもそもそういうタイプの人なのかなーとうじうじ考えながら時は流れました。すると突然口笛を止め、助手席の私の目をじっと見て「おれは唄が好きなんだ。なにか日本語の唄を歌ってくれ!」という無茶ぶりをしてきました。

えっ? 日本の歌? だんご三兄弟とか? いやなめられる! というか歌うの恥ずかしい! なんだかJ-POPとかではなくて、日本古来の唄がいいと思う! 国歌? いや国歌をアカペラで歌える自信ないし、あぁああああああああ!! っと、咄嗟に歌ったのが「さくらさくら」(直太郎のではないです)でした。なんだか義務教育の成果を感じたのを覚えています。

歌い終えた後、これは日本で有名なチェリーブロッサムの優雅さと儚さを表現した唄で上手い人が歌うといいんですよ。とかなんとか必死に弁明(?)しました。

すると運転手さんはにこりとして「よし、じゃあ俺の好きな唄も聴いてくれ」と歌い出しました。おい、自分が歌いたかっただけだろう。


原詩(ヒンドゥー語)
ほにゃららぴじゃぱん〜♫くちゃまきたるらかなだ〜♫ ぼるぼるべんこめくに〜♫ どるちぇくっすんちゃいに〜♫ もこはかつるべ〜♫

翻訳
俺の靴は日本製♫ 俺のズボンはカナダ製♫ 俺のジャケット米国製♫ 俺の帽子は中国製♫ でも! 俺の心はインド製♫


その歌声は自信に満ちていて、穏やかで、年輪を重ねた人間だけが醸し出せる豊かさを感じました。というより、ふつうに歌が上手い人でした。

歌い終えた運転手さんは、私の目をしっかりと見据え、ドヤ顔で「お前の心は何製だ? 日本人の誇りを持て!」と、言い放ち、再び口笛を吹きながらラジオから流れるインド音楽に身を委ねて縦揺れしてました。

私は身につけてるものほとんどが中国製で、しかも食べてるものはほぼ中国製だったり米国製だったりで、臓器やらなんやらも含めて日本製のところなんかあるのかなーと思いました。今さら心だけ日本製って言われてもなんだかもの悲しいなーっと。

すると、私のそんな気持ちを察してか、運転手さんは今度は進行方向を見据えたまま「日本人はすごいさ。俺たちインド人はみんな尊敬しているんだ。日本人は原爆を投下されて、焼け野原となった土地をゼロから復興し、今や高層ビルが建ち並び、政治や技術面においても世界をリードしている。それはなにより日本人が勤勉だったからだ。誠実でひたむきで一生懸命であること。それが報われたんだ。これは俺たちインド人にとって大きな励みとなった。俺はインドが大好きだし、誇りを持っているが、日本人のことは二番目に好きだぜ」と言いました。

それを聞いた私はなんだか嬉しかったんです。うん、確かにあれは誉められたという感情でした。あれ? でも、なんで日本のこと誉められてこんなに嬉しいの? すると、運転手さんは優しい笑顔を浮かべて言いました。


「You're heart is made in JAPAN!」


なんだ。しっかり日本製じゃん、自分。

ある日ある時突然に

この記事ははじめTwitterに投稿するつもりでしたためたので、文章の区切りがツイッターみたいになってます。読みづらいです。で、少し長いです。12ツイート分くらいです。まあ気が向いたら読んで下さい。



あのですね。2週間ほど前に父が喉を痛めて、吐血したんです。で、病院に駆け込みCTを撮ったら腫瘍が見えると医師から言われたんです。ほぼ喉頭がんだろう...と。それで、生検して、その診断結果がでるまで診断結果を待つことになりました。

で、いろいろ考えたんです。えーそんな急に言われてもさーって。喉頭がんについていっぱい検索しました。マイナーな癌みたいなんです。でも、最悪、声帯切除らしいんです。つんく♂さんも患ってます。父、タバコ吸いません。お酒も人並みです。歌も歌いません。でもだったらなんで? なんで?

でも、なにもできません。なにもできないので前から予定していた3Dドラえもんを観に行きました。観ている間になんでこんなの観てるんだろうと思いました。あっ、父は単身赴任なんです。ひとりでうじうじ悩んでるんです、たぶん。苦しんでるんです。でも自分はドラえもん。しかも少し感動しちゃってる。

映画の帰りに本屋で「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」を買いました。以前WEB版で読んでいたんですけど、「感傷に浸ってる自分」を自分に演出したかったんだと思います。ドラえもん3D観ちゃったし。でも、そんなこと演じてもなんにもできないし、診断結果待つしかないなーっと。


その日、家に着いて家族写真とか飾ってるんです。父にっこりしてるんです。もう見たくないんです。目を逸らすんです。これから診断があって、入院してって、まだたぶん生きるのに、もう終わりが見えてしまったかのように思えて。みじかな人の死はもう本当に絶望だと思いました。

で、もやもやを抱えたまま、先週の日曜に小学校の同級生との呑み会に行きました。すごく楽しかったんです。楽しんでる自分への背徳感みたいなのものはあるんですけど、その頃には中途半端に開き直ってました。それで、夜、父に電話するかもと言っていたのをすっぽかして、午前0時過ぎに帰宅しました。

家に着いてぼーっとしていて、ふと携帯をみると電池が切れてました。
そういえば帰りの電車でずっと寝てて一回も携帯見てないなーと思い、充電して、携帯の電源を入れると、父から着信履歴。あぁああー、でもだって「電話するかも」って言ったじゃん。「かも」だよ! かも!

しかもメールも来てるんです。そこには「仕事おつかれさま。あしたもがんばつて」とありました。だからもうさあああ! 仕事じゃないよ! ていうか今日日曜じゃんかと思いながら、なんだかもう無理でした。大きい「つ」がダメなんです。父を感ちゃいます。しかもメール受信時刻がついさっきなんです。

ずっと待ってたんですかね。それともねむれないのかな。家族写真の父と目が合いました。でもすぐ逸らしました。すぐ電話すればでるかもと思いながら、飲んで帰ったことの後ろめたさと、もう寝ていたら起こしちゃ悪いと都合のいい言い訳して眠りました。

一夜明けて、月曜日からはふつうに仕事です。意外にふつうです。でももやもやしていて、すっきりしません。父と同年代の人を見かけると、心が揺れます。もはや自分がまもなく癌宣告されるという心持ちです。診断結果は水曜日に判明します。生殺しってやつです。


火曜日、母が一緒に診断結果を聞くために父の単身赴任先に向かいました。喉頭がんに関するありとあらゆる資料の束を抱えて。
私はいよいよかー と思いながら、いつも通り仕事に行き、仕事をして、帰宅して、ぼーっとしてました。

診断結果でてないのにこんなに動揺してる自分って 笑 と少し思いました。でも、父は医師に「癌はほぼ間違いないけど、問題は転移ですね。リンパにももやが見えます」と言われたみたいです。そんな言い方する医者も医者ですけど、じゃあ癌だなーと。 問題は進行状況です。こればかりはふたを開けてみないと分かりません。

状況によっては毎日病院通いかーとぼんやり思いました。少し冷静になってきてました。でも、そういえば、兄にもうすぐ子どもが産まれるんです。父にとっては初孫なんです。仕事もあと一年で定年です。昨年、「雇われ」だけど社長になったって嬉しそうに言っていて、楽しそうに働いてます。あと、昨年還暦を迎えたのに髪がふっさふさなんです。これから抗がん剤で抜けていってしまうのかなーとか考えるともうやるせなくて切なくて。って、これ誰に言ってるんですかね、本当に。

あと一年。どうして、あと一年遅くなかったんだろう。
あと一年遅ければいろいろ区切りが良くて、諦めもついて治療に専念もできたのに。でも、きっといつなっても「あと一年」なんでしょうね。でも、あと一年っと強く思いました。で、父が帰ってきたときに手を合わせるあやしい神様に手を合わせました。「なにもありませんように」


水曜日になりました。もちろんふつうに仕事行きます。仕事します。でも、携帯が気になります。母は診断結果が判明した段階ですぐに連絡をくれるはずです。1時間に一回...30分に一回...と、次第に携帯を確認する頻度もあがります。そして15時を過ぎて確認。まだなにもない。もうこれ以降は逆に確認出来なくなりました。だって時間が経つにつれて、連絡がくる確率が高くなるじゃないですか。確定するじゃないですか。戦いが始まるじゃないですか。

18時になりました。もう携帯確認しよう。このとき、なぜか希望の方が割合が大きかったです。画面をみます。LINEきてる。こんなのLINEで送る、ふつうと思いながら、でもだったらなにで送るんだろうとか思いまながらLINEを開いたら


「腫瘍は消えてた。たすかつた」


大きい「つ」! えっ、それよりホントに? えっ? なに消えるって。えっ? そんなのって...奇跡じゃん!

無性に誰かに喜びを伝えたいけど、もうみんな帰ってました。なので、ひとり、まいったなーって感じを演出しつつトイレに駆け込みました。
トイレの個室でガッツポーズ! 声にならならい声でやったーーーーーーーーーーーー! ざまああみろぉぉ! と叫びました。トイレでどたどたじたばたしました。父が手を合わせてるあやしい神様にありがとうって言いました。もやもやがすーっと晴れました。



追記
今回のことで診断結果を待っている間「〜すれば、いい結果になるかもしれない」とか本気で考えたりしてました。まあなにもしなかったんですけどね。父も甲子園で大阪桐蔭が勝ち進めば奇跡が起こるとか思ってたみたいです。大阪桐蔭が勝ち進む可能性の方が全然高いのに。(優勝したし)よくある「ここからゴミ投げてゴミ箱に入れば告白成功する」的なやつです。で、たとえゴミ外しても結果が出るまでは、9回2アウト裏8点差逆転みたいなことをどうしても信じちゃいます。

絶望さんはいつも隣近所に住んでます。引越ししたと思ってもやっぱり常に近くに居ます。行動範囲狭いんです。で、ときどきドアをノックします。のぞき穴を確認して、あっこれはもしやと思い、「ちょっとまってて〜」って言いますけど、土足でずかずか入り込んできます。

そんなときやっぱり「あのとき〜していれば」って思ったり、ほんの少し前までの幸せを噛みしめたりするものなんだと思います。なにしていてもこれはそうなるもんなんだと思います。心の準備なんて出来ません。だから「そうなったら精いっぱいじたばたする」しかないんだと思いました。

ひとは絶対死にます。そんなの当たり前でニュースでいつも目にしてるのに、自分とその周りのひとは大丈夫だって、無根拠に思ってしまいがちです。でも、それって幸せだと思います。
生きてる間にどれだけ死を意識しないでいられたかが、幸せの尺度のひとつだと思います。
だから、またこんなことが起こるまで、全部忘れて、再びこんな状況になったときにやっぱり「あのときもっと〜していれば」って後悔するんだろうなーと思いました。おわり。

マルチさんその他

最近、街コンなるものに行きました。ちなみに2回目くらいです。

あっ、ご存知かと思いますが、街コン何回目かの問いに対しての答えは初めてか2回目しかないんです。だって2回目以上は具体的な回数言うのなんだか恥ずかしいじゃないですか。

で、まあ実りは全然ないわけですけど、なんだかマルチさんとはたくさんお近づきになるんです。
本当にマルチさんかはわからないんですけど、私の中のマルチセンサーの感度が高になっているからか、ばしばし引っかかります。マルチセンサー高のときのセンサー発令条件を下記にまとめておきます。


① 金持ちなんちゃらかユダヤ人なんちゃらを薦めてくる
→ 会話の流れが不自然で、いきなり「本とか読みます?」って聞いてきたりします。本自体はいい本なのかもしれませんが、要は捉え方です。

② おもしろゲーム大会に誘われる
→ これは初対面では誘われません。1回会って、その後メールとかで誘われるパターンが多い気がします。市民会館とか貸し会議室で催されます。で、全然おもしろくありません。

③ 幸せついて本気だして考えさせられる
ポルノグラフィティじゃありません。会話の中で将来の夢だとか、どうして今の仕事をしているの? だとかちょっと突っ込んで訊いてきます。で、本当にやりたいことなの? 幸せなの?っともう本当にまじめに答えるのめんどくさくなってきます。

④ 尊敬するひとの名前がいきなりポンってでてくる
→ そのままです。ほんとにポンってでてきます。「◯◯さんが私を変えてくてた」、「◯◯さんはすごい時間の使い方が上手」、「◯◯さんにぜひ会ってほしい」っと新興宗教よろしく激押ししてきます。『あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ』ってスナフキンも言ってましたよ。


以上大まかに分けて4つです。もう私は最近会話に金持ちなんちゃらがでただけでそのひとのことノー興味になっちゃいます。...っとさんざん得意げに語りましたけど、ようは世の中いろんなひといるよねーってお話です。


でも、結局どなたかとお近づきになりたいわけで。警戒ばかりしているわけにはいかないわけで。


今まで街で見かけた気になったひと、片思いだったひと、付き合ったけど別れちゃったひと。全員が全員のことをふりきれるくらい、どうでもよくなるくらい自分にとってすばらしいひととお付き合いしたい!っと。年とる度にそんな思いがどんどんおっきくなって、諦めた分だけ理想も高くなって、それを引きずって、もう後戻りできないまま年だけ重ねていく傾向があると思います。はい、自分がそうです。そして、ぼーっとして思うことは、いつももっとうまくいかないかなあです。

そうだ、DEMOにいこう

出逢いなんてもうないんです。

性欲まみれの合コン・街コン・出会い系サイトはいやだし(偏見)もっとこう自然なやつのことです。そういう目的じゃないけど結果としてそうなる確率高めだよみたいなやつ。

そんな気持ちわるい考えを巡らせた結果、デモにいこうという結論に至りました。目的を共有するために集まった人同士は気がついたらほら、もう友だちなんです。

でも、問題は真摯な気持ちで参加できるデモがないってことです。ようは思想があんまりないんです。

もしも重ねの大合唱

リア充になりたいです。


最近いろんなあやしい飲み会に参加してリア充を観察しているんですが、あることに気が付きました。


それは、リア充の会話にかなりの頻度で現れる、「もしも重ねの大合唱」です。あっこれ、今、私が名付けました。


これはひと言では説明できないので、以下に例文を提示します。


リア充A「あー、仕事めんどくせー」

リア充B「あっ、明日月曜日か。っざけんなよー」

リア充A「あー、毎日が日曜日だったらなー」(もしも1)

リア充B「だよなー、俺、毎日サーフィンするし」

リア充A「で、毎日100万口座に振り込んであんの」(もしも2)

リア充B「それやばくねえ? で、むしゃばろうんちんごみゃしっく...」


あっ、止めます。よく考えたら私はリア充じゃないので、こんなん再現できません。

要は、会話の中で急に「もしも」の話がでて、その「もしも」が積み重ねあげられていく現象です。(あっ説明できた!)
私の正体はそれをぶさいくなぎこちない笑顔で見守る側のひとなのです。なのです。

あの発想が全く思い浮かばないし、全然おもしろく感じないんです。
あれはリア充たちが無意識に自身の仲間を見つけだすために行うリア充同士の求愛行動だと勝手に思ってます。
でも、かなしいかなリア充になりたいんです。


忘年会、新年会、歓迎会、お花見の季節になると多くのグループが駅前や居酒屋にたむろしています。それを見かけると、つい仲間はずれを探してしまいます。

あっ、あのひとひとり違和感がある。愉しそうじゃない。ぎこちない。ノリキレテナイ。
これはもうリア充じゃない私にはすぐに分かります。確認するわけじゃないので、思い込みかもしれませんが。

っと、論点がズレました。「もしも重ねの大合唱」(以下:儀式)についてもう少し掘り下げましょう。


儀式にはルールがつきものです。この儀式ででいちばん難しいルールは、もしものレベルの上げ方です。
例えば、上記の会話では「毎日が日曜日だったらなー」がもしもレベル1として始まっています。この場合は次にもしもレベル2ないし3くらいまでの上げ幅しか認められていません。例えば「毎日が誕生日だったらなー」とか「毎日が地球最期の日だったらなー」とか飛躍させ過ぎ、会話繋がらなさ過ぎで、即却下のルール違反です。リア充にぷいっとそっぽを向かれることでしょう。ちなみに私はこれがこわくて絶妙な「もしも」が思い浮かんでも入っていけません。

そしてみるみる膨れ上がるもしもタワーにただただ圧倒されるのです。

これは長縄跳びにも少し似ています。タイミングを外してしまい、ただただリア充2名がぶん回す縄跳びを放心状態で見守るわけです。あっそういえば、リア充は総じて長縄跳びうまかった気がします。


思えば小学生のときはなんでも出席番号順でした。出席番号の順番が回ってくるまでに心の準備をすれば良かったんです。でも、社会にでるといつ順番がくるか分かりませんし、誰も待ってくれません。周りのひとがどんどん長縄跳びに入っていくなかで、いつの間にか参加することもそれをただ見ていることさえも許されず取り残されていく。。。


そんな社会で、あなたは今日も上手に跳べていますか?